Swallowsです



過去10年間で
リーグ優勝5回(92,93,95,97,01年),
日本一に4回(93,95,97,01年)も輝いた
最強チームであるヤクルトスワローズの中でも、特に記憶に残る選手について書いた物を集めたところです。 巨人ファンも歓迎します。
あっ、でも阪神ファンは...

正座して刮目しなさい

以下のメニューからえらんでね。あと、ここにある写真には肖像権に引っかかると怖いので、一部修正をつけています。
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簡単な創設期の話とちょっとしたデータ

スワローズはここ十年間で五回のリーグ制覇、四回の日本一を果たしたことから常勝球団と思われがちですが、
ご存知の通り過去は球界のお荷物といわれ、優勝はおろか、Aクラスもきわめて遠かった時代があったのです。

手元にある選手名鑑の過去の球団の実績をみてみると、スワローズが常勝軍団となった90年代以降を除くと、
Aクラス入りしたのはたったの十回で、日本一になるまでに球団創立からなんと29年かかっています。

29年というと球団創立の年(1950年)生まれた子供が成人して家庭を持つのにも十分な期間である。
2001年のワールドチャンピオンとなったアリゾナダイヤモンドバックスとは大違い。
この差はやはり資金面だった。だいたい球団のできた経緯もかなりいい加減なもので...

「昭和24年11月7日といえば、日本プロ野球2リーグ分立の最終会議に先だつ3週間前のことである。審判員の西垣徳雄は、甲子園から帰京の途上、偶然、時の国鉄総裁・加賀山之雄氏に出会った。加賀山氏は元来大変な野球好きであった。たまたま新球団加盟をめぐるプロ野球界の実情に話が及び、西垣氏が現状を説明するのを、加賀山氏は興味深げに聞き入っていた」(本文 国鉄スワローズ誕生・前史より)

ふぅ。

でも、九十年代に入り、南海やロッテ、西武で名捕手、名監督(プレイングマネジャー)として鳴らした野村克也氏を
監督に迎えてからのスワローズは強い!(←過去形じゃないことに注意)
まず優勝実績が他の球団の追随を許さぬ程ダントツで、92,93,95,97,01年とリーグ優勝、内92年を除く5回は日本一に輝いている。
唯一日本一を逃した92年は王者西武を相手にまともな先発は岡林一人だけにもかかわらず
(事実高卒ルーキーの石井一が一回先発して敗戦投手になっている。いまやメジャーリーガーだけどね)、第七戦までもつれ込む健闘を見せました。
前年の山本カープが王手をかけながらに連敗して西武に日本一をさらわれたこととか、
(←広島ファンに配慮して消去線をいれました。事実はかわらないけど。)
さらにまた前年の巨人が西武に四連敗して惨めに敗退したのとは大違いです。

日本一率(日本一になった回数/日本シリーズに出場した回数)を導入すると、出場回数5回以上ではスワローズの.800が最高。
ちなみに主だった球団を挙げると、巨人が19/29で.655、西武(前身は西鉄ライオンズ)が11/18で.611、
オリックス(前身は阪急ブレーブス)が4/12で.333、広島が3/6で.500、伝統があってフォッサマグナ以西では絶大な人気を誇る阪神は1/3で、.333
...となっています。

ホージー太郎(謎)

97年の本塁打王、ベストナインに輝いた
デュエイン・ホージー外野手(背番号10)を覚えているでしょうか?
アメリカはユマでのキャンプの時には野村監督に、酷評されていたにもかかわらず、ついにはタイトルを取ってしまったというフロックもいいところの選手でした。

実際、野村監督が酷いといった守備は確かに目を覆うばかりでしたし
(いつかの試合ではレフトにあがったフライを見失い、
ボールじゃなくて自分のスキンヘッドの頭を抱えて落球しました)、
肩も弱く一時期レフトのホージーを狙い、
レフト打ちを作戦にしたチームもあったそうです。
たしかにセンターは名手飯田、ライトは好選手稲葉で、利にかなった作戦だと思います(笑)

チームのムードメーカーとしてもすばらしい選手でした。
日本に来て覚えた歌をよく歌っていたらしいんですが、
その歌が変なんですよ。
テレビで聞いたJ-POPを歌うんなら分かるんですが、
彼が歌うのは「さお竹の歌」なんです。
よく住宅地を、さお竹の訪問販売の車が
さお屋ー、さお竹ー♪竹屋ー、さおんざお♪”
と歌を流しながら巡回してますが、その歌なんです。
(ちなみに亀有の我が家の周辺は来ないんですよね。さお竹を買いたいのに。
ホームセンターから買うには重いしかさばるからちょっとねぇ。宅配料金ももったいないし)
変な歌を歌いながら練習をする変な外国人選手...、あまりいませんねぇ。
今ならさしずめ近鉄のローズが一番近いのではないでしょうか。
パフォーマンスを重視するなら持ちネタとして志村けんの“アイーン”を習得している
スワローズのアレックス・ラミレスかな。
ラミレスは春のキャンプで新ネタを仕入れようとしてましたが、
やはりアイーンが一番性に合っているみたいです。受けもいいですしね。
リーグ優勝のときに浜スタで見たあのアイーンは生涯わすれられないでしょう(大げさ)。

ホージーに話を戻すと、
彼の持つ不可思議さの極みは日本シリーズでしょう。
第二戦で六回1アウト満塁のチャンスで、
投手の投じた球がなんとホージーのグリップエンドに当たり、
そのわずかなすきに三塁ランナーの宮本がホームイン!
球史に残るとんでもない打点のあげ方をみせてくれました。

翌年は他球団のマークが厳しくなったことと、
ひざの状態が思わしくなかったことで成績はダウン。
そして解雇。
とはいえ、あのプリクラを張りまくったヘルメットや、
アメリカ人なのになぜかあだ名が「太郎」だったことや、
後日宗教系の出版社から日本での思い出を書いた本が出版されたりと、話題に事欠きません。
(←ちなみにこれは本人が熱心なプロテスタントだからだそうです。その本による。)


豪腕の天然?天然の豪腕?の石井一久

彼はいまや大リーガーですが、スワローズ時代の通算成績は
224試合に投げて、78勝46敗1S防御率3.38、1998年−奪三振王、2000年−最優秀防御率(2.61)、最多奪三振(210) 。
彼ほどの投手にしては以外にも勝ち星が少ないですが、スワローズのエースとして長年ローテンションを守ってきました。

高卒ルーキーの年から先発、全然実績を残せなかったにも関わらず
ルーキーイヤーの日本シリーズではチーム事情から先発に抜擢されます。
結果は負けましたが、以後日本シリーズでは無類の強さを発揮します。
日本シリーズで強いといえばチームメイトの高津投手がいますね。

石井は97年の日本シリーズでは
15回投げて無失点で二勝、奪三振15と完璧に西武を抑え、
2001年の近鉄との日本シリーズの緒戦では
7回1/3まであわやノーヒットノーランのピッチングを披露。
投球数が140球を超えたため完封は逃しましたが
8回投げて強牛打線をわずか1安打に抑えました
(強牛打線といわれたけど、この日本シリーズではBSEに感染していたのかな?)。
あの熱投を生で観れたのは実にラッキーでした。
(←私は大阪まで行った馬鹿です)

大舞台で強いといえば、97年の終盤にベイスターズが追い上げてきて
迎えた神宮での天王山の緒戦に見せたノーヒットノーランも見事でした。
三浦との投げあいで緊迫したゲームの均衡を破ったのは10勝3敗で防御率1.91と日本一に大きく貢献しました。

と、ここまで彼が並ではない選手であったことを書いてきたのですが、
彼の常人とは別の意味で異なるエピソードの数々を書かなければ
石井について書いた文章として片手落ちでしょう。

野村監督時代、神田うのとの交際→成績不振から外出禁止
塀を乗り越えての逢引とか、
その神田うのは犬猿の仲の野村夫人にハワイでビンタされたとか、
現夫人の木佐アナとの婚約会見で木佐アナのおいしい料理を聞かれて、
「サラダ」と答えて木佐アナの逆鱗に触れたりとか、
夫婦でフジテレビのCMに出演したりとか、
球団とは別に芸能事務所として吉本興業に所属していたりと話題に事欠きません。

スワローズから入札制度で渡米しましたが、ヤクルト球団の度量の大きさに感服しつつ、
真の金田二世である石井投手の活躍を期待するところで締めくくるとしましょう。


歌って踊れる守護神、高津臣吾

93年に抑えに定着してから、スワローズの勝利の瞬間には常に彼の姿がありました。
先日の4/29には史上二人目となる通算200Sをあげた高津投手も色々な色々な伝説を持っています。

名鑑を見るとまず目をひくのがサーファー系といわれる端正なルックス。
そして、ほかの選手が趣味、特技の欄には読書やドライブ、スポーツなどを書くのに対し、
ひときわ目立つ、「マッチ棒を使った手品はプロ級」の文字。
血液型はA型と書かれているが、一部のうわさでは本当はB型といわれている。普通こんなうわさは起きません。

野球選手離れしたトークの面白さは、オフのテレビ番組でも古田と名バッテリーをほこり、
天然の石井一久とは黄金リレーをグランド外に実現しちゃいます。

アフロヘアで大都会を熱唱したり、日本シリーズの優勝祝賀会(ビールかけ)には
選手会長自ら変なたすき(おそらく○急ハンズで購入と思われ)をかけて、場を盛り上げる。

こんなことばかり書いていたら、野球を引退した人がバラエティーに出演しているかのような
印象を与えますが、れっきとした現役の選手で丸十年間スワローズの守護神をしています。

故障でほとんど登板できなかった97、98年を除き、
(でも97年の日本シリーズの最後は高津がしめた。その年は伊藤がストッパーだったんだが...)
コンスタントに二桁セーブを積み上げました。
宣や佐々木、与田のような速球はないけど、いまやシンカーといえば高津といわれるくらいまでの決め球シンカーで修羅場を潜り抜けてきました。
そのシンカーは92年の日本シリーズのときに同じ横投げの西武の潮崎投手が投げるシンカーを見て習得することにしたそうです。
潮崎といえば、ここ数年便利屋としてつかわれていたけど、今年は先発として見事復帰したみたいです。

そのシンカーのせいで、そうとう肘に負担がかかっているみたいで、
今では「ひじの状態でその日の天気が分かる」といいます。
でも、積み重ねたSは江夏を越えて、あと残すは佐々木の229S越えです!
(←ここで、”江夏はもともと先発でしかも200勝投手じゃん。”とか、”佐々木は大リーグでばんばんセーブ稼いでいるぜ。”とかいうつっこみはなしでお願いします。)